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町名由来・町のなりたち

最終更新日:2015年11月6日

水巻町の航空写真 神社・オブジェ 銀杏の木

町名由来

立屋敷の八劔神社に合祀されている保食神社の棟礼に、「保食宮は昔、水巻宮と称す。水巻は、地名にして水の巻く意なり」と記されています。明治22年(1889)の町村制施行のとき、水巻山にあった戸長役場を村役場に改称して、役場の所在地の名をとって村名にしたのが水巻村です。その後、昭和15年(1940)に町制を施行し、水巻町となりました。

町のなりたち

遠賀平野は遠賀川の上流から運ばれた土砂と、響灘から吹き付ける風により形成されたものであり、各地に縄文・弥生式土器などが分布しています。遠賀川の中州に広がる立屋敷遺跡は、昭和6年に弥生時代の土器や農具・住居跡が発見され、稲作文化の発祥地として知られています。

奈良時代になると、吉田地区には大和朝廷と太宰府をつなぐ官道の駅館が設けられていたことから、交通の要衝として発達していたことがうかがわれます。

 

平安期には、平家鎮西武士団の雄であった山鹿兵藤次秀遠が遠賀川河口一帯を支配していましたが、平家の終末とともに滅亡し、その後、麻生氏に代わったことが麻生文書(1586年)にみられます。

室町時代には、室町幕府の御料所として存在し、足利尊氏が西下の際、えぶりにあった西光寺に泊まったという言い伝えもあります。豊臣政権以降は、幾度かの検地によって水田が開発され、耕地が広がり今日の村落を形成するようになりました。江戸時代に入ってからは、元和(1619年)黒田長政が水巻大明神に参拝したことが藩記に記されています。その後、堀川の開通(1762年)により、豊富な用水の恩恵を受け、稲作を中心とした純農村地域となりました。明治に入り石炭鉱脈の発掘と国の富国強兵策の下で、石炭産業の町として栄え、明治22年の町村制施行に際し、立屋敷・伊左座・二・下二・吉田・頃末・えぶり・古賀・猪熊の9ヵ村が合併して水巻村になり、石炭産業隆盛とともに人口も急増、昭和15年に町制を施行し「水巻町」が誕生しました。

しかし、昭和30年から始まるエネルギーの変換により、昭和46年石炭産業の終えんを迎え、町勢は一時衰退しましたが、炭坑跡地の再開発と合わせて、積極的に住宅政策を進め、北九州都市圏内のベッドタウンとして発展をみています。

 

 

水巻町役場 電話(代表)093-201-4321

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